4年目の大垣北高等学校

 今日は岐阜県内で2回のステージでした。

 1回目は笠松町の笠松小学校。1年生から6年生までが体育館に集まりました。
 もともと岐阜県の小学校は、どこでやっても子どもたちは我慢強く辛抱強く、ステージについてきてくれます。この笠松小学校も例外ではありませんでした。なんと小学校1年生の生徒たちも、ちゃんと1時間30分のステージに着いて来られます。ちゃんと「震災篇」が公演できました。先生たちも誇らしく、そして笠松町文化協会としてもう5年もステージを呼んでくださっている河合さんご夫妻、そして恵さんも誇らしそうでした。
 笠松小学校
 
 そしてそのまま大垣北高等学校に移動しました。
この高校は岐阜県内のトップを切って毎年公演になっています。今年はついに4年目、ステージ4番の公演です。我が母校斐太高等学校からは全くお呼びがかからず哀しい限りですが、まるで僕の母校のような気持ちで今日も大垣北高校の正門から「帰還」しました。
 今日の演目の4番+震災篇は最も高校生のみんなに伝えたいことが詰まっています。
 「パレスチナ篇3」は、17歳のニーメルに
「お前に何がわかる!」
 といわれた物語です。
 「自転車日本一周篇」は、桑山の暗黒の高校時代の話しから始まり、自転車で日本を一周しながら自分の進むべき方向を見つけていった話しです。
 そして「震災篇」では、名取を襲った津波直後の話しから、その後どうやって被災地が立ち上がっていったかの話しです。
 どれも来た高校生には身近です。北高校はずいぶん早いうちに生徒会が中心となって募金を多額集め、直接クリニックに送ってきてくれました。
「おお、大垣北から心のこもった募金が届いたか!」
 と本当に励まされました。それは初期初動で放出した薬の無償提供の購入代金となっていきました。
 1000人を超える高校生のみんなが、身じろぎもせず静寂の中に聞いてくれる環境は、こちらの心を大きく打ちます。何度も涙を流しながら語りました。聞く気持ちがないことがわかる生徒さんがいると、こちらの気持ちも萎えてきて漁師の太さんのところ、いつも泣いているのに泣かないで過ぎてしまいます。でも今日は違う。
「こんなに心豊かで多感な高校生がいるのか。」
 という思いがこみ上げてきて、太さんの語りは本物になっていたと思います。
 そして伝統となった「交流会」
 100人近い生徒さんが集まってくれて活発な意見交換です。これも大垣北のいいところ。ぜひいろんな高校でできればやりたい「振り返りの会」です。ここでも、高校生らしい本音の悩み、自分の進路や性格についての迷いも語られました。
 素直で率直な高校生。
 彼らがこれからも素直に生きていけますように、と願ってやみませんでした。
 交流会の様子
 玄関までたくさんの先生たちに見送られ、今年の大垣北の公演が終わってしまいました。とても寂しかった。でもまた来年逢えると思うし、卒業生がたくさんいろんなところに来てくれるので、これが「別れ」ではないと思っています。ここで出逢えた僕たちは、その意志がある限りずっとつながっていけるのです。
 みんな、また来年ね!
 3年生のみんな、卒業しても「地球のステージ」公演を全国で見つけて、通ってきてね。その時は「大垣北の卒業生です。」の一言で十分。ハグしようね!
 最後にみんなと
 さて、最近「閖上のジオラマ制作、期待しています!」というメールや手紙をよく頂きます。街を失った子どもたちが、その記憶の中で一生懸命自分たちの街を再建しようとする試みが人々の感動を呼んでいることがわかります。
 今日も子どもたちは一生懸命「街づくり」に取り組んでくれました。
 しかし残念なことがあります。
 一部の人たちが、小まめに僕のブログをチェックし、少しでも子どもたちのことを書こうものならばしかるべき人に通告し、その人からクレームに近い訴えがFAXなどで僕のものとへ届きます。
 そのたびに僕は落ち込み、胃が痛くなり、もう懲り懲りだという気持ちになり、ずいぶん体重も落ちました。
 その人たちは子どもたちの人権やプライバシーを守ろうとしているのだと思いますが、本当に大切なことは子どもたちがどんな思いで日々を過ごしており、どんな頑張りを見せ、何を願っているのかをたくさんの人が「共有する」ことだと思うのです。そうすることでみんなが共通の意識で「がんばろう」と思えてくるはず。
 そして最も大切なこと、
「子どもたちも元気を得る」
 ことが可能になると思います。全国の人々が自分たちのことを見守って応援してくれていることが本当は子どもたちのためになるはず。
 いま、ますます全国から忘れ去られたようになりつつある被災地だからこそ、そんな全国からの応援が必要な時期に入ってきています。だから、本当は日本の多くの人たちが子の子どもたちを応援していることを伝えたい。それはこのブログへの書き込みなどでも十分伝えられるはずなのです。
 でも僕のブログはいつも見張られています。
 だから、限界があります。
 本当はその子やその子の親に許可を取れば、名前を出したり、詳しい日々の出来事を掲載してもいいはずなのに、そんな事をすればそんな一部の人からどんなクレームが寄せられるかわかりません。だからこれまでもそうであるように、
1)子どもたちの固有名詞が特定されない
2)子どもたちの顔が特定されない
 というところを保持しながらの報告になります。従って、もっと親身になって寄り添いたいという全国の皆様には物足りない報告になるかもしれません。でも、ちょっとでも、
「抵触している」
 とその人たちが思うとクレームが届いてしまうのでその点はご理解頂き、その「枠」の中で精一杯子どもたちの願いがどこにあるのかをお伝えしていきたいと思いますので、今後も見守ってください。
 
桑山紀彦

4年目の大垣北高等学校」への11件のフィードバック

  1. 桑山さん、明ちゃん今日は笠松でのステージありがとうございました。
    今月は、桑山さんのステージを2回も観ることが出来てとてもうれしかったです。
    先日の文化協会のステージの時は、スタッフとしてやるべき事があり集中してステージを観ることはできませんでしたが、今日はゆっくり観せていただけ、色々な思いもよみがえってきて泣けて泣けて・・・。
    大口町で明ちゃんの姿を見たときは、本当に疲れているなって心配しましたが、今日の明ちゃんは元気そうでホッとしました。
    でも、桑山さんは疲れているようで・・・。
    そうそう!今日のクッキーは「馬蹄クッキー」ではなく、「蹄鉄クッキー」ですのでお間違えなく~!
    「人生馬くいきますように!」です。
    これからも笠松の子ども達と応援し続けますから☆

  2. 私は、ブログを通して、名取の子供達の様子など知る事が出来て嬉しいけど、桑山さんの心労が最小限に止どまる様にして下さいね。

  3. 被災で傷を負った方々を非難出来ませんが、まだまだ前に進めない人がたくさんいるのですね。
    子供の人権を守ろうと云うのでなく、「傷に触るな!」と云ってるんじゃないですか?(消防車の保存を、さらしものにするのか!と云う人と同じです)
    桑山さんがやらんとしている、【真の対策】の大切さを理解してもらえないのが残念です。
    毎日新聞の写真記者・手塚さんだったら、このことをどう思われるでしょうか・・・。

  4. 桑山先生お疲れ様です!私も本当はこの名取に住んでいて、ゆりあげに関わっている身として、この先生のブログでのコメントで伝えてたい事は沢山あります。けれども、先生のおっしゃるとうりプライバシーの問題などが邪魔をして、被災地の方々の心情や体験した事や悲しみ、苦しみ、そして、誰かに聞いてほしい方々の事を私も全国の方々に伝えて行きたいのですが、やはり、その事を伝えるのには私もどのようにプライバシーの保護をしながら伝えて行けばいいのか難しく思っておりました。先日の日曜日には、仕事で疲れきっている主人を気晴らしさせてあげたいと思い、主人は近くの公園に行きたいと言うので行って来たのですが、その公園は仮設住宅の近くで、私達夫婦はベンチで休んでいたら、1人のご婦人がワンちゃんのお散歩に来ていて、話しかけて来たので、色々な話をしていたら、ゆりあげに娘さん家族が住んでいて、今は私の主人の叔父さんと同じ仮設住宅に居るとの事で、そんなお話しをしていたら、私達の話を聞いていた60代の男性が近づいて来て、ゆりあげの人なのか?と話しかけて来られて、私達夫婦が、ゆりあげに関わっている事がわかると、色々語り始めました。私達夫婦も、いつものように暗黙の了解で、日が暮れるまでご婦人や男性の辛いお話しを聞いていました。やっぱり、まだまだ辛く大変そうでした。この内容も本当は詳しく伝えたいのですが、やはりプライバシーの問題で詳しくは語れません。やりきれない思いです。でも私達夫婦も微力ではありますが、私達夫婦に出来る事は続けて行きたいです。私は先生の応援団です!陰ながらいつも先生を応援しています!先生もどうかご自身のお身体を大切になさって下さい。いつもありがとうございます!

  5. 大垣北高での公演、ありがとうございました。
    昨年まで3年間 聴かせていただきましたが、
    今年は北高生徒の保護者ではないので、聴くことができず、
    また、11月の羽島公演日も都合悪く、
    本当に残念でなりません。
    でも、いつか我が町で地球のステージを…は あきらめていないので、
    その時はよろしくお願いします。

  6. 先生お疲れ様です。
    ケアする方、される方どちらも道を探り疲れているからこそ、傷つけあうことをしてほしくないのに。 
    非難するより助け合うことを考えられないのでしょうか。
    私は人は人に支えられることで立ち上がれることを、この震災で学びました。まだまだ立ち上がれないでいる人達が耐えています。傍にいてもらえるだけで救われるときもありますよ。
    先生のご健康を祈っています。

  7. 「プライバシーの保護」という名目が、
    日常の中では、メリットよりもデメリットを生むことのほうが多いと感じることが多々あります。
    たしかに、思いもしない悪知恵を働かせる人間がいるため、
    そういったことに出会う機会を減らそうというのもわかりますが・・・。
    プライバシー保護という言葉が、どれだけ、コミュニケーションの機会をうばったり、前向きな体制を取り辛くしているかと思うと、残念です。
    因みに、我が自治会では、防災のための家族構成の名簿さえつくれません。
    しかも、組が対面の世帯とではなく、普段顔を合わせることのほとんどない後ろ向きの世帯と組んであるので、3月の震災以来
    「災害があってもお互いに助け合うことできるのだろうか」と、ご近所さんと話をします。
    そのシステムを変えたいけれど、必ず反対する人がいるそうです。ふぅ~
    「プライバシー保護」というけれど、
    本当に大事なことは何なのかを見失っているとも思える
    今日この頃の日本ですね。
    桑山さんの真意を汲み取ることができずにいる人たち、残念です。

  8. 閖上の子供たちは 桑山先生に心のケアをしていただけて 本当に恵まれていると思います。大人になったとき きっと 有難かったなあと思うでしょうねー
     桑山先生が閖上におられ 被災された事は まさに 必然だったのだと 思います。
    どうか お体を大切に頑張ってください。

  9.       パール・バック「つなみ」
     
     アメリカのノーベル賞作家パール・バックは、宣教師の娘として中国で育った。1927年、国民革命軍の南京侵略が迫ると知的障害の六歳の子どもを連れ、長崎県の雲仙に逃れた。その頃のことを「悩み多い歳月を送ってきた私にとっては、心の痛みが癒える毎日でした」と雲仙のことを語っている。その5年前、雲仙は大津波に襲われていた。雲仙の津波を材題に、のちに「つなみ」(原題THE BIG WAVE)を執筆した。日本では1947年径書房から出版され今年復刻出版されたのである。
     ある日突然村を襲った大津波により何もかも失くした親子。
     「つなみでキノがジヤはもう二度と幸せになれんような気がする」というと、父は答える。
     「いや、いつかなる。『生は死より強し』だ。泣かせておいてやることじゃ。じゃが、いつまでも泣けるもんじゃない」
     父の言葉が、胸に突き刺さります。
       和歌山 なかお

  10. 桑山さんも心癒されるステージがあるかと思えば、心無い中傷もあるのですね。
    なんで応援しようという気持ちになれないのか、残念でなりません。
    桑山さんが進めているジオラマの取り組みは素晴らしいと思います。
    ブログでの状況報告は体調を崩さない程度で結構です。ずっと応援しています。
    これ以上、桑山さんの心身への負担にならないよう祈るばかりです。

  11. ちょっぴり オーバーワークで 少し体調を崩した中、このブログを読みました。
    涙がとまりません。嬉し涙と悔し涙。
    桑山さん 身体を 壊さないでください。

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