幼い頃の原点

雪のない飛騨高山でお正月を過ごし、あまりの暖冬に逆背筋は寒くなる一方である今日、快晴の空のもと、乗鞍岳が夕陽に輝いていました。
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 この山を見ながら18歳までこの町で育った僕は、迷った時や辛い時はこの山の元へ戻るようにしています。変革の年である今年、この山のことを常に意識しながら、日々を過ごしていこうと思います。そして小学校1年生になるまで育った、高山市内の駅前路地裏を再訪してみました。経済的に苦しかった桑山家は在日コリアンの皆さんが固まって過ごしている長屋に家を借りていました。
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 幼いなりに良く覚えている近所づきあいの楽しさ。優しく聡明な在日コリアンの子どもたちに守られながら日々を過ごしていました。苦手だったのは2歳上の清水ミチコ。すぐ近くに住んでいた彼女は、物まねの天才で全ての場を仕切ることができる「ボス」だったのです。子ども心に、「この人ににらまれないように」と思っていたことを思い出します。

 そして仲よかった近所のみんなが進学をせず、転校していく姿を不思議に思いながら、それが在日コリアンの生き方だったのだとあとで知った頃には、この長屋は更地となり今は駐車場になっています。
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 「意識化して生きていくこと」

 どんなことにでも興味と関心を持ち、「知りたい」という強い気持ちを持って生きていくことがいかに大切か、狭い視野しか持てないで生きていたからこそ、この田舎の町で焦りながら自覚していったように思います。

 眠ったように流されて生きていくのではなく、一つ一つの出来事に目覚めながら生きていくことが大切。なかなか難しいことだけれど「意識化のプロセス」を人生の目標と捉え、今年を乗り切っていかなければなりません。

 今日は「閖上の記憶」で今後販売していくビデオ作品の制作が完了しましたが、そんな合間に出かけていった自分の小さい頃の原点探しは、やはり大切なもののように思います。

 皆さんも是非時々、小さき頃の原点にふれる旅を…。

 4日の朝、名取に戻ります。

桑山紀彦

幼い頃の原点」への6件のフィードバック

  1. 小さい頃、見た景色…と同時に蘇ってくる匂いなど、その中で感じ考えていたことは今もとても大切です。
    私も時々、思い立って小学校まで育った地域を訪ね歩くことがあります。あんなに長かった通学蕗の道のりが、あっという間だったり、高い塀がびっくりするくらい低かったり…毎日、大きな鳥居にお参りしながら通っていた神社が、小さく感じたり…
    そんな時代に心に残っていることや、なぜ?どうして?と考えたことは今も私の原動力です。
    「なぜ、頭のいい人(トップになるくらいだから)達が国の代表になって、戦争が引き起こされるのだろう…」「身につけた知識や学力はなんのため?」と、いつも問いかけていました。
    今も、その頃に出会って深く心に残っていることは、変わらず心の中心の核となっています。
    私自身の思いや願いを込めて、海老名にもぜひ行ってみたいです。
    フィリピンの動画、海に浮かぶ星が観たいのですが、今、使えないので、観られずとても残念です…

  2. そして…
    話し合いの時など、何も考えずに?ただ、時間をやり過ごして、流し流されているような人達には、腹立たしくなります。あとから、陰で何か不満や文句を言っていても、何もなりませんよね。
    全部スルーしていることは、OKの意志表明と同じ。
    子ども達にも、立ちどまってちゃんと自分で考え、選択し決定していくことの大切さを話しています。すみません、いろんな感情が蘇ってきて、悔しくなり、吐き出してしまいました。

  3. 何故か海老名移転を契機に原点に返って再スタートする
    Dr・Kの覚悟のメッセージと感じました。

  4. フィリピン篇2の南方で咲く花はハイビスカスと
    黄色い花はカロライナジャスミンでしょうか。
    その南方からハードスケジュールで一気に寒い日本に戻られ、
    体調の管理が大変ではないかと思っておりました。
    幸か、不幸か温暖化の影響で高山も例年ほど寒くなかったことは、
    考えようによっては、体調に良かったのではないでしょうか?
    桑山さまが記されたように子供の頃の原点にふれ、
    なにかを意識することは大切なことであり、
    また、幾つになっても、
    様々なことに関心をもって興味を抱くことは、
    人としても、とても意義があることと思います。

  5. 懐かしい長屋の思い出です。幼いながら社会問題に対しかなり早熟だった私は、この国に在日コリアンの方々へのいわれなき差別が存在することを知っていました。しかし、近所のコリアンの方々の温かさの中で育った私の中には全く差別意識は育つことはなく、否、差別を憎む心すら生まれました。隣町でメンコ(高山では「ケン」と言いました。)で大負けしてしょげかえっている私を見て、「マアちゃん、ちょっと待ってててな。」と言って数日後、メンコが一杯に入った30×30×20㎝程のブリキ缶を「ほら、取り返してきてやったから。」と差し出してくれたコリアンのキヨシ兄ちゃんは私たちのヒーローでした。転居する際、「どうしてこんなに泣いてくれるのだろう?」とすら思ったコリアンの方々の優しさを今でも忘れません。差別を憎みこそすれ、自らは決してしなかったということは、憲法学徒としての今の私の拠り所ですらあります。
    皆さま、何卒、今後共、愚弟をよろしくお願い申しあげます。

  6. すぐ上に記されたお兄様のコメントとかけ離れてしまいますが、
    1枚目の高山市内の写真、建物の形、屋根や壁面の色合い、広告らしきものもなく、
    何となく外国の小さな町を見ているように感じてしまうのは、私だけでしょうか?
    私事ですが、新年早々の3日の夜、新しい方のノートパソコンの画面が90度回転し、
    顔を傾けない限り画面の文字が読めず、調整を試みましたが無理でした。
    4日の起動時も同じ状態で、やむなく相談窓口の女性の誘導で操作を開始しました。
    相談窓口には大変感謝しているのですが、この日は時間がなく急いでいたにもかかわらず、
    運が悪く、何を試してもダメで「確認をしますので暫らくお待ちください」を何回も繰り返し、
    1時間半以上経過しても調整できず、私も用事があり、一旦操作を中止しました。
    夕方は別の方にお願いし、ものの5分もかからず、いとも簡単に調整が完了しました。
    女性と一緒にチャレンジしていた悪夢のようなあの長い時間は何だったのと思いつつも、
    私自身、新たな操作方法を知ることができたので、それでよしにしようと思いました。
    桑山さまでしたら、考えることもなく右クリックして、簡単に調整したことでしょう。

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