沖繩公演、その後の余波

その後、今回の沖縄公演を主催した「子供文化連盟~太陽樹」の人たちの中で何人かが、「地球のステージ」を批判しているという。面白い、直接文章などで寄せられると、彼らの考えも判るかもしれないから、期待したい。
 その批判内容はだいたい以下のようなもののようだ。
 「桑山という人間は戦争の何たるか、平和の何たるかが判っていない」
 なるほど、僕は確かに先の沖縄戦の被害者ではない。しかし、「地球のステージ」の中には現在の戦争や平和についての考え方や考察が詰まっている。
 沖縄タイムスが小さく記事の中に書いた。
 「NPO法人“地球のステージ”がフィリピンや旧ユーゴスラビアの悲惨な状況について語った」
 ???
 地元新聞にしてこの程度の理解である。ちゃんとステージを観れば、「悲惨さの中にも人間の生きる力やエネルギーがある」ことが伝わってきて、感動していただき年間260回を越える公演ができているというのに。
 浦添のこのイベントを行う人たちの中には被害者意識で足がからまっているため、世界が見えない人がいるのではないだろうか。
 2年に1回通っているひめゆりの塔に併設された「ひめゆり平和資料館」でステージの交渉をした時に言われた言葉を思いだす。
 「ひめゆりのホールは、基本的に被害者の人が語る場所なので、被害者でない人の公演はお受けできないと思います」
 今回のことの顛末を考えると、浦添の主催者の一部の人たちは
 「あくまで実経験のある沖縄の人間が、戦争や平和について“教えてあげる”ものなのであって、外部の人間にあれこれ言われたくない」
 という偏狭な気持ちを持っているように感じられた。
 翌日11月4日(日)の広島の平和を考えるイベントで歌ったが、非常に社会に開かれたものであることにびっくりした。人の入りの多さ、いろんな地域から、いろんな人がきてうねりのようにそのイベントを行っている。単に沖繩と違って陸続きである広島が「有利」なのではない。ヒロシマは平和を内外の人と「共に考える」姿勢が明確。浦添のこのイベントは一方的に「教えてやる」の姿勢の違いがあるように思う。
 僕のような「沖縄以外の人」が沖縄の地で平和や戦争についてのイベントやコンサート、ステージをやった人たちは、おそらく皆一様にこの「排他的」な雰囲気と、「体験者じゃないだろう」というそしりを受けた経験が、今回の僕だけではなく実は多数あるのではないだろうか。そして多くの人が、そういった沖繩に愛想を尽かして、「沖繩はもういい」と思ってきたのではないだろうか。
 第一部で司会者が帰ってしまい、「地球のステージ」は誰が「フリ」をして、どうやって始めるといいのかわからないで往生したことを考えれば、浦添のイベントが実に偏狭であり、外部に開かれていないことを如実に表しているといわれても仕方ない。
 自分たちの内部では大いに盛り上がっていいが、いつまでそれを持ってして「平和を考える」イベントと銘打ちつづけるのだろう。それでは単に「現在ある平和を楽しんでいるだけ」であって、全く未来へ向けての取り組みには見えない。
 観てからの批判は受けよう。そして話し合いを持ちたい。しかし、司会者も帰り、横で第一部で盛り上がった子どもたちが騒ぎつづけるその状況を、主催者はどう見ていたのだろうか。
 戦争について、平和について多くの経験と歴史を持つ沖繩が、大きな心を持って開かれたものになることを願う。そして舞台監督の一人が言ってくれた言葉に期待したい。
「地球のステージを観て、考えさせられた。自分たちは過去のことをいつも取り上げては“平和、平和”といってきた。しかし“地球のステージ”は視点が現在と未来に向いている。だから今回の自分たちのイベントが実は単なるお祭りに過ぎないことを認識し、今後の参考にするいいきっかけとなった」
 勇気ある若者だと思う。
 もちろんそんなことをいったら、「先輩」格の人たちにこき下ろされるかもしれない。
 けれど、彼がそう思ったみずみずしい「気付き」は、これからの沖繩が取り組む平和を訴えるイベントに、大きな「改革」を呼び起こすものだと思う。
 来年詠んでもらえたら、それは沖繩の先進性を証明するものだと思う。
 「あの団体はもういいよ」という、過去に縛られた偏狭さでこの関係も「終わり」であれば、沖繩の平和を考えるイベントは、いつまでも「井の中の蛙」的イベントを脱しきれないと思う。
桑山紀彦

沖繩公演、その後の余波」への2件のフィードバック

  1. 私の父は13才のとき、少年兵の試験を受けたそうです。「あと3ヶ月戦争が続いていたら、人間爆弾として出兵していたんだ。」
    そんな話を織り交ぜながら、父は戦争の体験を話してくれました。
    もしかして、私も生まれていなかったのか?と思うと、戦争は決して他人事ではないと感じました。数年前には、実家の畑に、不発弾があることが分かり、半径数百メートルが立ち入り禁止になり、自衛隊の方たちが、処理をしたのです。
    近くに、日本軍の飛行場があり、B29が、雨のように爆弾を落としていき、日本軍の飛行機が、煙を吐きながら落ちていったそうです。これは、私の家の話だけで、日本全国には、筆舌しがたい経験の方たちが、たくさんいらっしゃることでしょう。
    私が初めて「地球のステージ」を見たとき、感動だけでなく、心の中に、何かの衝撃が走ったのも、そういった体験をしていたからかもしれません。

  2. 戦争を経験したことがなければ、平和を語ってはいけないのでしょうか。
    そこに住んでいなければ、平和を願ってはいけないのでしょうか。
    この記事を読んで、ステージ4のパレスチナ篇ニーメルを思い出しました。
    私が沖縄にいったとき、ヤマトンチュと言われました。
    あとで鹿児島の友人にそれはシマンチュと本土の人間を区別する意味も含まれていると言われたのを覚えています。沖縄はとても良いところだったのに、その意味を知ったとき、同じ日本人とはいえ、歴史的背景も含め、近づけない何かがあるんだろうなと思い、寂しくなりました。
    泡盛をのみ、カチューシャーを踊るだけでなく、本土の人間と沖縄の人々が共に、これからの日本、平和について考えられる垣根を超えた交流ができるといいですね、ほんとうに。

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