祝日の芋煮会

 先日、雨の中で芋煮会がありました。

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 主催はロシナンテス。対象は閖上の皆さん。場所は市役所。久しぶりにたくさんの閖上の皆さんが集まりました。そんな中に我が「地球のステージ」及びNICCOは、あのつくばに住む伊井さんがきっかけで頂けるようになった「2008年閖上の全景写真」を持参して、テントを組ませて頂きました。

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 閖上小、中学校では「刺激が強いのでは」という危惧と心配を受けて、特に子どもたちには見せないでタイミングを見ていたこの写真を思い切って展示させて頂きました。そして出来た人の集まり。

 責任者はケンケンこと宗貞研ですが、

「出せてよかったです。みんながきちんと見に来てくれて携帯で写真撮っていかれました。自分の家を探し、見つけて”あった!”と確認されていかれました。それは正直どんなお気持ちになられるのか、不安ではありましたが、やはり皆さん自分の生きてきた“跡”をちゃんと確認したかったのだと言うことがわかりました。

 もちろん、みたくない人は、この写真の前には来なかったのかもしれません。それでも一生懸命自分のなくしてしまった家を探す皆さんをみていると、その姿がひたすら心に沁みました。」

 そしてこれも心理社会的ケアの一つと捉え、そこにメッセージボードを置かせてもらいました。そこへ書き込まれていった言葉の一つ一つ。

「涙が出てしまいます。この震災でいろんな面で助けられて日々感謝」

「閖上は僕の街でした」

「未来の子どもたちへ私たちは閖上に守られていく!」

 みんな失ったものを取り戻したいのです。そのために何を失ったのか、はっきりと自覚し、その上で何を取り戻したいのか心の中で確認する大切なきっかけになったと思います。半年が過ぎて、大人も子どももそんな心の整理をするべき時期に来ていると、改めてこの写真の展示を見て思いました。

 いよいよ明日からは心のケアの一環である「手芸教室」も始まります。

 40~60代の女性の皆さんが何を見て、何を感じ、これから何をつくっていかれるのか、一緒に歩んでいきたいと思っています。

桑山紀彦

祝日の芋煮会」への6件のフィードバック

  1. 遅ればせながら8月末の山形南高の消防車展示、今読んで驚きました。
    写真展示も同様ですが、人さまざまの感情が入ってくると本質から外れた考えも出てきます。
    これは「情」ですから、正しい・正しくないだけで片付けられない厄介なものです。それぞれが自分が正しいと思っているからです。
    これがすっきり出来るなら国会もちゃんとやれる理屈です。
    だから自分の信念に基づいてやるしかありません。桑山さんのクリーンな心でやれば賛同を得られます。大丈夫です。

  2. 何を失って、何を取り戻しに明日へ向かうのか、それ確認をしていくことは大切なことですね。名取にボランティアに伺った時も感じましたが、写真の力って大きいですね。写真には、その時のそこに実在したという事実が閉じこめられている・・・・。そして、自分自身はこれからも、「本当の幸いは何なのか?」という命題から目をそらさずに、明日に向かって考え行動していきたいです。また、名取や閖上に伺って、何かお役に立てることはないか、日々思いを巡らしています。紀君、ケンケンさん、スタッフの皆さん、今日も雨の中、本当にお疲れ様でした。

  3. 台風の影響はどうですか?私の職場は午後休講になり帰宅したので帰宅難民にはなりませんでしたが、裏の川の水位、かなり上がりました。仮設住宅の中には床下浸水された所もあったようですね。和歌山の事も心配でした。
    見て、整理をして出発をするって大切なんですね。今日からはじまる私と同年代の皆さんの取組みが今日の青空のような気持ちに迎えます様に。私は手芸苦手だけど…

  4. 桑山紀彦 様
    2008年の全景写真よく展示されましたね。 
    ご覧になった方はさにら強い希望をもったのではないでしょうか。  
    以前の写真を見たくないという人はいないと思いますよ。
    住んでいたところですから。
    芋煮を食べながらいろいろと想い起されたことでしょう。

  5.       海堂尊監修「東日本大震災、医師たちの奮闘 救命」より抜粋(その1)
     桑山紀彦医師
    今回の東日本大震災では、これまで学んだ言葉、教えられた言葉、習得した言葉、そのすべてがが無力でした。僕を訪ねてくれた被災者の方々に心療内科医としてしっかりカウンセリングしなければならないのに、これまで身につけたカウンセリングの技術など吹き飛んでしまいました。話を聞きながらも僕も一緒に泣くだけ・・・・。毎日、患者さんと一緒に脱水症状が起きるほど泣きました。「医者」という科学者としては失格です。
     でも、涙が枯れ果てたときに、僅かでも必ず希望が見えてくるはず。99%の絶望の中でも、必ず1%の希望があるんです。その1%の希望の中でも人は生きていける。もちろん、目の前の人にかける適切な言葉は何か、とその都度頭がキリキリになるほど考えました。色々考えたけど、「もう一緒に泣くしかない」と心の底から思ったんです。一緒に泣いて、この人たちにずっと寄り添い、希望を導かないといけないと考えたんです。
    宮城県南三陸町 志津川病院
     菅野武医師
     しかし、今度は町内無線で津波警報が発令されたんです。これは一大事だと、患者さんたちを五階へ運びはじめました。(中略)ちょうど患者さんたちを五階に上げたタイミングで、スタッフの誰かが「津波だ!」といいました。僕も窓にかけより携帯で写真を撮っているんですが、データは午後三時二十八分になっています。正直に告白すると、ニュース映像で見知っていたスマトラ沖地震の津波って、ニメートルくらいの高さでしたから、被害にあうとしても平屋や一階部分だろうという意識がありました。-----しかし、東北地方を襲った天災は人間の予想を超える凄まじさでした。本当に、僕の認識は甘かった。
     波はドーッていう凄まじい海鳴りを伴って高まった次の瞬間、松原を軽々と越えてしまいました。そこにバキバキと家屋をなぎ倒す音、クルマを流すガーッて音が重なります。瓦礫とクルマを巻き込んだ濁流は、病院の前の建物もすべて水没させ押し寄せてきました。スーパーなんて屋上の看板しか見えません。病院前に停められていたクルマも消えました。
     津波がツーッと盛り上がってから、こうなるまで二分ほどの出来事なんですが、ほんの数秒くらいにしか感じられませんでした。それに僕は再三「波」っていってますけど、あれは僕の知っている波の形じゃなかった。あえていうと、茶色をした巨大な壁。それが病院にぶち当たり、建物を揺らしました。そして、たちまち四階の病室の天井まで水浸しになるんです。
     僕は無我夢中で、階下に残っている人たちに「早く五階にあがれ」と叫んでいました。だけど濁流の衝撃を食らった途端に、たくさんの人たちが泥の水に飲み込まれてしまった。マットレスに寝たまま流されていく患者さんを、五階の窓から茫然と見つめるしかなかった。
     このとき僕を襲ったのは、階下の人たちを助けられなかった自分に対する激しい怒りです。圧倒的な絶望感と無力感にも苛まれました。それに加えて、自分も余震や津波の第二波、あるいは二次災害なんかで、このまま死んでしまうんじゃあないかと強烈に感じました。
     だけど、そうするうちに覚悟が固まったというか・・・・死ぬにしても後悔はしたくない。自分の根っこに忠実でありたい。最後は人間として、同時に医者として誇りをもって死んでいこう、がんばろうという気持ちが湧き起こってきたんです。
          (その2)へ続く。
        和歌山   なかお

  6. 閖上の写真があるんですね。それは良かったです。
    記憶ってどうしても不確かなところがありますよね。
    故郷の姿をもう一度確かめられて安心した方もいらっしゃると思います。
    本当にあるがままを写す写真の力ですね。
    きっと今撮っている写真も一枚ずつが貴重な写真なのだと思います。
    台風はいかがでしたか?被災された皆さんが不安な一夜を過ごされたのではと気がかりでした。

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