漁師の正さん

 今日は若い閖上の漁師さんが来てくれました。

 正(ただし)さんといいます。

「最近、オレ眠られないんです。今親父とお袋の3人で妹の家に世話になっているんですけど、なかなか眠られない。妹は“自分の家だと思っていいんだよ”って言ってくれるんですけど、なんか気、遣っちゃってて。夜に妹が旦那さんと話してるの聞くと、“オレのこと話てんのかな”って思っちゃうんです。いや、妹たちはそんなことないと思うんだけど、そんな思いが頭の中から消えなくて。」
 正さんは巨大地震が来た時、絶対に津波がくると思って閖上港から、同じ漁師のお父さんと共に家に戻りました。そこでお母さんと合流。急いで同じ名取の山の方に住んでいる妹さんの家を目指しました。でもまだ津波は来ていないようです。正さんは両親を妹さんの家に残し、また猛スピードで閖上の港を目指しました。自分の船の係留をきつくしておこうと思ったのです。
 しかし途中で同じ漁師の仲間に逢い、
「正!行くな!もう津波がそこまで来てんだ!行ったら死ぬぞ!」
 やむなく引き返しました。直後津波が来て、正さんは九死に一生を得たのです。
「オレ、30歳まで会社員やってたんです。親父は生まれた時からずっと漁師。魚ばっかりとってた。オレ、なんかそれは嫌で会社員やってたんですけど、やっぱりオレ親父の背中見て育ったんすね、30歳の時、会社やめて漁師になったんすよ。だって親父、船一つであのでっかい海から魚とって俺たちを食わせてきたんすよ。そんな親父のこと“カッコいい”って思うようになったんです。
 親父も喜んでくれて、二人で南は相馬から北は気仙沼のあたりまで船出して、サンマにヒラメ、アジとかとってたんです。
 でも魚とるのもなかなか難しくて、親父に怒られてばっかりだったけど、そんなオレも3年もやっているとようやくちゃんと魚とれるようになって、オレようやく、ようやくちゃんと親父のあと継いで漁師やっていけれるって思えるようになったんす。
 それなのに、それなのに、あれ(津波)はみんな持ってっちまいました・・・。
 オレまだ3年しか漁師やってないんです。このままじゃ、どうしても納得できねえす。」
「船は?」
「水が引いて、親父と探してたら見つけたんすよ。閖上の港から2キロも流されて、県道10号線にひっかかったんです。そん時は無傷に近くて、これだったら海に戻してもう一回魚とれるかも、って思ったんすけど、次に行ったら県道の通行の邪魔になるってことで重機が無理矢理どけたみたいで、船体に穴開いてました。”動かす時はここへ連絡してくれ”って張り紙したんすけど、携帯も通じにくかったんですかね。」
「・・・」
「あれじゃあもう無理かもしんない。解体しかないって思ってます。」
「船の名前は?」
「謙信丸っていいます。」
「謙信・・・。」
「元々新潟の船買ったんで、その屋号です。ずっとそれで出かけてきました。」
「これからどうします?」
「・・・そうすね。海は、海はいろんなものを俺たちに与えてくれたけど、その同じ海がみんな奪っていきました。自然のことだからしょうがないって、そう思おうとしているけど、どうしても納得できなくて。
 親父が特にしょげてるんです。“お前に何も残してやれんかった”って落ち込んでるんです。だから、オレしばらく別の仕事がんばって金貯めて、もう一回海に出ようかって思ってはいます。でもなかなかそれもきついっす。」
「・・・」
「お袋はパートに行って働いてるんで気が紛れるみたいだけど、オレも親父もただただ海だけで働いてきましたんで、船奪われると、ほんとなんにも無くなっちゃうんすよ。」
「今は、目の前の1段登ることしか考えられないもんね。」
「はい、でも何とかまた海に出たいって、そうは思ってます。」
 昼に謙信丸を見に行きました。
4/14-6
 いつも見てきたあの船の持ち主が正さんだったんです。
4/14-5
 僕たちは丘に打ち上げられた船を見てびっくりします。そして思わず、
「お~、こんなところにまで船が打ち上げられてる」
 ってしゃべります。でも、そのうちあげられた船の持ち主がどんな気持ちでいるか。どんな思いで、丘に乗ってしまったその「相棒」のことを無念に思っているか今日は教えてもらいました。
 打ち上げられた一つ一つの船に、人生が、思いが、願いが、物語が詰まっています。
 杉ヶ袋の大友さんの田んぼがまた緑に戻る日まで、そして正さんの漁船がまた海を駆け抜けていくまで、僕たちは支え合っていきたいと思います。
 外来の最後に、
「正さん、オレまた正さんの魚食べたいんすけど。」
「ほんとすか」
「閖上の魚、うまいから」
「そうなんすよ。また食べたいっすよね」
「浜屋さんにも復活してもらってね。おいしい刺身とお寿司、絶対っすよ」
「そうすね」
「いつかきっと・・・。」
「はい」
 また来週、正さんと会います。
桑山紀彦

漁師の正さん」への16件のフィードバック

  1. 優しいよね。張り紙して帰ったけど携帯もかかりにくかったんだろう。なんて。ムカついて、大声で怒鳴っても良いのに。 映像で建物の上に乗っかった船を見る度に、持ち主の方はどんな思いで見てるのかな。と思ってました。
    自然の力ってすご過ぎ。私達、住まわせて貰ってるんだなとつくづく感じます。
    朝日新聞に桑山さんの記事がありました。仕事帰り、電車に乗っている時、数人から「桑山さんが新聞に載ってるよ。」と?がきました。みんなブログも読んでくれてます。

  2. 桑山ちゃん
    泥に覆われた湊中の校庭に桜が咲いたよ
    大好きなANAが飛んだ桑山ちゃんの喜びと同じくらい
    俺もうれしかったよ
    「前向きに」
    だね

  3. せんせい、診察券番号3番のせんせい。いつかきっと石巻市立湊(みなと)中でステージの続きやりたいです。今度は3番のはずだ。僕たちはようやく、少しずつ、ほんの少しの未来のことを、ほんの少ししゃべれるようになってきましたね。

  4. 朝起きてすぐに読むのが桑山先生のブログです。いつも涙が出るので、それから顔を洗います。
    新聞は朝食後・・・・。
    昨日の共感と同感・・・・すごく分かります。
    わたしも神戸の震災の前の年、15歳の次男を海で亡くしました。
    其のときの事がよみがえってきます・・・・。たくさんの言葉で慰められるより、同じ経験をした人が黙って手を握って涙を流してくれた方がはるかのはるかに安らぎました。
    先生、本当にそうなんです!!先生のおっしゃるとおり!!
    私も出来る事なら子供を亡くしたお母さんのそばにそっとよりそっていてあげたい。
     
            遠く宮崎より   

  5. 子供は、親の姿を見て育ちます。
    小さい頃、閖上大橋の下で父親としじみを取りました。
    晩年の父親は、閖上の朝市が大好きで毎週のように行っていました。
    人懐っこい父親は、すぐにお店のおじさんやおばさんと仲良くなりました。
    父親が亡くなった春です。
    桜が満開の中、旅立ちました。
    いつか、また閖上が元気になってくれるのを祈っています。

  6. 本当は明るい話ではないのでしょうが、何かほっと救われるような気持ちでになりました。
    こういう人たちが復興の力になるのでしょうね。
    TBSの被災地の声で後藤さんの話を聞きました。
    明るい表情をみて安心しました。

  7. 今日はじめて、こちらのブログを拝見しました。
    私も閖上に生まれ閖上で育った者です。
    今は市内でも津波の被害に遭わなかった土地に住んでいます。
    実家は全て跡形もなく流されてしまいました。
    県警や市のホームページで、身元確認ができた犠牲者の方々の氏名の一覧を、知った名前がないのを祈りつつ、知った名前を探してしまうという、矛盾した事が日課になってしまっている毎日です。
    今までの人生で、何か1つでも違う道を選んでいれば、私もこの震災時、閖上に住んでいたかもしれません。
    同じ土地で過ごしてきたたくさんの知人が亡くなっているのに、どうして私はこの時、安全な場所にいたんだろう。
    どうして私は今も生きているんだろう。
    すごく罪悪感を感じてしまいます。
    あの街並みも、亡くなった方も、この先二度と戻ってはきません。
    記憶の中にしか存在しません。
    全てを失い、もっともっと辛い思いをしている方々がいる中で、私なんかがこんな思いを抱くのは申し訳ないとわかっていながらも、どうしてもそう思わずにはいられません。
    長々とコメントすみませんでした。

  8. 日々患者さんの辛さを受け止めておられる先生の、暖かい心にいつもありがたいなーと思っています。
    テレビで流される人達は前向きで、「くよくよしても始まらない。」という。強い気持ちを持っていらしゃるのでしょう。
    私には、正さんの言葉のほうが実感です。
    避難所生活に気を使い、身内の家にお世話になっても、身の置き所なく戻ってくる人も少なくありません。
    仕事を失った人もかなり多いです。
    頑張って 希望を持って 諦めないで ・・・・
    励ましの言葉とわかっていても、力が出ません。
    今はただ辛さを受け止めてほしい。赤ちゃんのように周りを気にすることなく安心して泣けたら、我慢していた感情がでていくのかな。

  9. 辛いけれど 一人ひとりの人生がある。と 桑山さんは教えてくれる。
    いや みんなの代弁者。
    正さんがまた漁に出れますようにと祈ります。
    いつもドキドキはらはらと読んでいるブログ。
    今日は 少し落ち着いて読めたよ。
    桑山さん ファイト!
    みんなを よろしくね!

  10. 私も閖上の魚を食べたいです。いつかきっと、閖上の美味しいお刺身やお寿司をいただきたいです。
    船、田畑、家、車などひとつひとつにおひとりおひとりの大切な物語があることをあらためて想いました。
    桑山さんのブログでたくさんの大切なことに気づかせてもらっています。

  11. 心にしみるお話でした。
    漁業の復活を祈ります。
    板子一枚下は地獄という覚悟で海に乗り出す漁師たちの心意気を大切にしたいもの。
    高台に住み通勤漁業を・・・などという、政治屋たちの安易な発想を、彼らは受け入れるでしょうか。

  12. 頑張って、強く生きて、明日を見つめて、希望をなくさずに、
     とか、僕たちはいろんなことを言います。
     しかし、それは悲しみを持った人のこころには届かないでしょう。その人の本当のこころを僕たちは理解できないから。そんな言葉より、そばにいて、一緒に泣いてくれる人のほうが、どんなにか悲しみにくれる人のこころを優しくつつんであげられるでしょう。
     桑山先生、どうか一緒に泣いてあげてください。僕からはそれしか言えません。
     でも、そんな桑山先生も辛く苦しい日々を過ごされているのですね。頑張ってくださいという言葉はむなしく響いていきます。
     傷ついた人々のそばにいる、そのことが大事なのに、なにもできない自分は、毎日、コメントを書くしかできません。
     多くの人の声だけで、被災地の人々をささえるのは不可能ですが、思いを伝えるメッセージだけは送りたいと思います。
        和歌山 中尾より

  13. 無傷だった船を…無念ですね。
    非常時とはいえ、漁師にとっては生活の糧を得る命綱
    という意識が働かなかったのでしょうか?!
    張り紙もあったというのに。
    ちゃんと補償される道がないものでしょうか?
    やりきれない気持ちを抱えて過ごしていらっしゃる方が
    どれだけいらっしゃることでしょう。
    一日も早く、行政も対応してほしいです。

  14. 昨日はネガティブな書き込みをして、すみませんでした。
    書き込むときはどうしようかいろいろ考えましたが
    抑えられませんでした。
    こちらのブログで色々な人の人生に触れ
    外部からの関わりを被災地ではどうとらえているのか
    ということも知った後
    被災地への支援という名でなされる事柄についてのニュースを目にすると
    「被災された方は余計に悲しい思いをされてるんじゃないか」
    「さらに孤独感を感じていらっしゃるんじゃないか」
    等、一人でびくびくして・・・
    何もできない私は結局同じ、、、
    いや現地にさえ行けていないんだからそれ以下だ。
    と考えてしまい、そのことがとてもとても苦しかったのです。
    このような自分の苦しさをもてあまし、ぶつけてしまった私は
    弱い弱い人間ですね。
    しかも被災された方に。すみません。
    こんな思いもひっくるめて、現実を見つめる強さを持ちたいです。泣けて仕方ありません。
    他の方も書かれていましたが、正さんは本当に心のきれいな方ですね。
    「携帯がつながらなかったのかな」なんて・・・
    被災された方々にとって、同じ土地に暮し同じ経験をされた医師・桑山さんは
    これ以上ない心強い存在だと思います。
    「同感」は何にも代えがたい桑山さんの強い強い武器なんじゃないでしょうか。

  15.  お久しぶりです
     
      わたしは鶴岡一中の2年生です。
     昨年の地球のステージ、とても感動しました^^
     ありがとうございました。
      桑山さんが被災地でがんばっているのを知り、
    すごいなぁ・・・と思うばかりでした。
     桑山さんの存在でたくさんのかたが元気になれます。
      被災地が元気になります。
     あと、何日、何ヶ月かかるかわかりませんが
    健康にお気をつけて、被災者のみなさんのために
    がんばってください。

  16. 「こんなところまで船が…」よく聞きますよね。
    それを持ち主が聞いたら…。
    恥ずかしながら、そこまで考えが及びませんでした。

hideki nakao へ返信する 返信をキャンセル

あなたのメールアドレスは公開されません。必須項目には印がついています *