ノースカロライナの動き

 今日は朝の7時から、アメリカはノースカロライナの皆さんとSkypeしました。30分間、テレビ電話で話しても全く無料。世界は本当に身近になりました。

 今、このアメリカに住む友人たちと計画している大きなプロジェクトがあります。
 それは「津波祈念資料館」の建設です。
 これは完全に箱物です。そう、資料館とシアターをつくるのです。
 英語名は「Tsunami Memorial Library and Theater」
 クリニックの横にある300坪の土地が購入できたら我がクリニックと「地球のステージ」に並んでこの資料館が建ちます。
 まず1階。そこは「真実の回廊」(Corridor for Truth)
 メインエントランスの正面にはめちゃめちゃに壊れた赤い消防車。歩さんと2人の消防団が最後まで移動を呼びかけて絶命した消防車。入ってすぐに圧倒的な存在感で人の「死」と「生」が伝わってきます。その奥には200インチのスクリーンに50客の席数を持つ「シアター」があります。地下方向に掘られて階段状になっているこのホールでは、コンサート、演劇、語り部の会、講演会が行われます。
 3月11日は、毎年記念講演会が行われ、真実の物語を伝えていきます。
 2階は左右のウイングに分かれます。
 まず左に「物語の回廊」(Narrative Corridor)
 ここには「1000人の証言」が視聴可能になります。展示は幾重にもわたる軸(Axis)に分かれます。まずは津波という被害なのか地震という被害なのかという「軸」。そして年齢という「軸」。それから時間という「軸」。地域という地理的な「軸」。こういった幾重にもわたる「軸」によって織りなされる意図の交わりに5分から15分にわたる「語り」の実録を聞くことができます。
 命からがら逃げたという物語。息子を失ったという物語。すべてを失って、かえって一からやり直そうと思えた物語。14日間、枯れずに主を待っていたシクラメンの物語。見て見ぬふりしない生きざまを貫いた夫の死を受け入れようと苦しむ妻の物語。
 多くの物語がビデオ映像とともに再現されます。
 それから右に「視覚の回廊」(Visual Corridor)
 ここには一般市民が撮影した多くの映像が保存、記録されます。
 津波が襲ってくるありさまを携帯のムービーで撮りつづけた人。
 取り残された屋上でカメラを回し続けた人。
 フリーのカメラマンが独自の視点で撮り続けた映像。
 それらが公式的に視聴されるセクションです。そこでは、津波の(あるいは自身の)「その瞬間」が再現されていきます。
 この資料館は、後世にこの甚大な被害の本当の姿を伝えていくことを目的とします。決して単なる「事実」を記載し、記録するだけではなく、襲いかかる自然の暴挙に対して、本来は無力なはずの人間が、打ちのめされても打ちのめされても立ち上がっていく姿を伝えていくものです。
 それは教育的な側面とともに、時には悪夢に悩む人々に対する治療的な側面も入れ込むものです。
 いつの間にか忘れ去られてしまうのではなく、きちんと形にして残したい。その活動を始めるのは「今」しかないのです。
 すでに赤い消防車は保存に向けて動き出しています。
 友人のAsia Press代表野中さんには、心あるビデオジャーナリストに「1000人の証言集」の協力を求め快諾を得ています。
 一般の皆さんが今保存している津波の「その時」の映像は、広報することで相当数集まると思います。
 資料館の設計は我がクリニックと「地球のステージ」を設計した楠山設計にお願いしました。
 土地はすぐ横の300坪を考えていますが、まだ地権者とは逢えていません。きっとどこかには必ずいい土地があるでしょう。しかし、今回津波で被害を受けた地域であるべきだと思うので、我がクリニックの近くであるべきだと思います。
 本当は壊滅した閖上の街の中につくりたいのですが、今日名取市長に相談したところ、閖上の再開発には相当の時間がかかるとのこと。市長はやはり我がクリニックの隣接か近隣での建設を勧めてくださいました。名取市の協力もOKです。
 広島には広島平和記念資料館があります。沖縄にはひめゆり平和祈念資料館があります。
 この東北には未曾有の災害で多くの命を失った事実に基づき、「津波祈念資料館」をつくろうではありませんか。
 「映像と語り」
 それはまさに「地球のステージ」が目指してきたもの。
 そして、僕が外来で、訪問診療で聞き続けている「物語」は絶対に保存されるべきだと思います。
 人は、そうやって自分の被害を「語り」「物語にし」「それを形にして」「誰かに預けて」「被害から解放されていく」ものだと思います。それは心の傷からの回復にとても有効なものです。
 その要としての資料館を、私たちNPO法人「地球のステージ」が設立していきます。その中に「あゆむ基金」も組み込まれ、展開していくことになるでしょう。
 
 人は言うかもしれない。
 「まだ仮設住居もままならないのに、そんなものつくっていいのか?」
 と。
 しかし、これは仮設住居と比較されて順番が決まるものではないと思うのです。まさに同時進行。今、赤い消防車を保存し、避難所をまわって1000人の証言を集め、上書きされる前に携帯電話の中に保存されている「その時」の映像を保存していかなければ、すべてが失われ、忘れ去られていくのです。
 再びこんなひどい災害が起きた時、この資料館が伝える人間の知恵と勇気を活かしていくためのセンターがこの資料館です。
Tsunami Memorial Library and Theater By Frontline
 年内のオープンを目指します。
19-1
今日の閖上の街
桑山紀彦
 
 
 

ノースカロライナの動き」への23件のフィードバック

  1. コメント第一号、かな?
    素晴らしい話ではないですか。
    フライング気味に感じる方もいるかとは思いますが、広い被災地区の真ん中で、一番に手を上げることには大きな意味があると思います。
    神戸の震災記念館といえる「人と防災未来センター(http://www.dri.ne.jp/)を、たまたま昨年末見てきましたが、お金のかかっている割に、展示方法など疑問に思いました。地球のステージになら、本物の「祈念館」ができると思います。

  2. 賛成です。
    仮設住宅さえままならない時だけど、それだからこそ、こんなプロジェクトを創生するのが、桑山さんだと思う。
    いいじゃないか!

  3. すごすぎ!桑山さん!
    今日 池上さんの番組で、神戸が震災後 光の祭典で頑張った話をされてました。東北も何かそう言う物の動きがあれば良い!って!地球のステージのお隣だったらぶち良いと思う。

  4. 地球のステージがここに集約されていく、と感じました。すぐさま、具体的になっていくのがスゴい!私はなにをしましょう!具体的に考えます。すごい!

  5. 応援します。
    早くやることに意味があると思います。
    厳しさと明るさを訴えるものを作ってください。

  6. ようやく、希望を持つ光に出会ったような気がします。
    神戸より祈り、応援しています!
    絶対、実現してください。

  7. 桑山さん
    涙があふれました。
    こんな大変なときに「未来」をちゃんと見ている。
    過去を、今を、未来をしっかりと見ている。
    そんなあなたを心から尊敬し、応援しています。

  8. 素晴らしいです。
    桑山さんの冷静な心と、強い思いが感じられます。「その瞬間」の映像や記憶が失われたり、薄れたりしないうちに同時進行ですね。応援しています。

  9.        太平洋を渡る手紙
    こんな手紙があります。
    おねがい
    わたしは、ふぞく小学校の3年生です。
    わたしは、このなつ、しなの川のながれを
    しらべてみることにしました。
    しなの川の◎じるしからこのてがみを
    ながしました。このてがみを
    ひろって         はおてがみ
    をくださ         みには、
    いつ、どこ        何分にひ
    ろったか、かいてください。
    それにお名前とじゅうしょ
    も、でんわばん号もかいて
    ください。おてがみを
    くれた人には」、とても
    すてきなプレゼントを
    さいあげます。
    (なまえ)S××××
    (じゅうしょ)新潟市坂井
    (〒)95
    (でんわ)02     94
    (うみでひろった人も
    おてがみくださいね)
    1980年7月27日
    この手紙は、1997年の12月に太平洋のミッドウェイ島の砂浜で見つかりました。
    プラスティック製の容器の中に密閉されたまま入っていたのですが、17年と五ヶ月間、太平洋の荒波に揉まれさ迷っていたため、ところどころが読めなくなっています。
    この手紙を見つけた人は、すぐ日本に連絡をつけ、この手紙を書いた人を捜しだしたそうです。
    手紙を書いた人は当時は9歳の小学生。それが、26歳の若者になっていました。その若者は約束通りすてきなプレゼントを渡したそうです。それは、サクラ貝とおかあさんが作った手作りのお弁当箱だそうです。
    この手紙が、新潟から日本海を回り、まっすぐミッドウェイ島に向かったとして4400キロ以上。しかし、これは直線距離でのはなし。海流に乗り平均1ノットとして7年五ヶ月もかかるわけがありません。もちろん、海を漂い、まっすぐミッドウェイ島に向かうわけがないので、海流の計算をして、7年五ヶ月の計算をすると、太平洋えを7,8周したことになります。
    しかし、少年は7年五ヵ月後、自分の夢と出逢えたのです。その手紙はけっして諦めてはいけないといっています。
    津波記念資料館、いつか、必ず実現します。諦めてはいけないのです。いまの現実につぶされることなく、遠くに夢を掲げてください・・・・・。
         和歌山   中尾より
                  (参考文献ーー池澤夏樹著「ハワイイ紀行」より)

  10. いいですねぇ。「国際」クリニックから「世界」に発信するメッセージが広がって行くでしょう。世界のもっともベーシックな地点…生と死…を見つめる拠点になります。「世界」が変わることを願いつつ…。安心しました。

  11. Drくわやま。あなたの、時間は・・・あの日から、これまでの何倍速のスピードになったの?
    毎日のブログが、超濃縮ジュース。原液では、喉につらい程の味。でも。今は、それが現実なんですね。
    それを、薄めるのではなく、じっくり味わい、考えを共有したいと考えます。

  12. 今日もみんな元気さ~。
    高橋に行ってきました。またまたみんな元気。
    すごくいいと思う。この災害は決して忘れずに心に刻んでみんなこれからを歩んでいかないといけないと思う。
    みんなの物語は心の底からの叫びだと思うし願いも混ざってるとても濃い大切な物語だと思う。けれど俺にも物語はあると思うんだ。家もあって家族も元気で友達も学校も街もある被災者の方にとったら幸せな俺にも物語がある。
    今回の災害を実際にこの目で見て俺はたくさんのものを被災地と被災者とそしてクリニックにいたたくさんの人から感じたよ。生と死の狭間や命の大切さ、輝きそして人の愛や優しさや強さ。こんな悲劇から俺はプラスのものを得られた。そして思ったんだ。俺はここで自分の力を使いたいって。こういう被災地で人々の力になりたいってすごく強く思った。具体的に何をするかっていうはまだ決めてないけど俺は人の力になりたい。子供達とサッカーして本当に楽しかった。あんな気持ちになれたの久しぶりだった。それも含めてこの災害は俺の分岐点です。クリニックのみんなのおかげです。こんな形だけど…"本当にありがとうございます!今はまだ何もできない私の代わりに被災者の方々の力になってください"
    この災害から私は多くのことを得て自分の存在価値に気づき、夢を持つことができた。それが私の物語です。

  13. 宮城の地で、悪夢のような震災を記録する祈念館。将来の災害に備えるべき教訓がたくさん残されるのでしょうね。
    年月が過ぎるほど人の記憶は、曖昧になり辛いことは早く忘れたくなります。
    思い出すたび辛くなる記憶を、受け入れるには抵抗もありますが、現実に起きた事実として語り続けられる大震災の規模です。
    自然の力に抵抗できないけれど、残された人達の力で復興するための大事な記憶 記録 教訓となられますよう祈念館の計画のご成功を願っています。
    お役に立てることがあればいいなと思います。

  14. これは「地球のオタカラ!!」・・・本物のステージですよ。
    桑山先生がご配慮なさるとおり、現実の声として必ず「そんなハコモノを」「コンクリートより人だ~」「なんで田舎の美田園(みたその)なんかに!!」と。その時にボソッと言ってあげましょう。「そうですネ~、これはあなたの心に届いた『地球からのプレゼント』なんだがナ~」・・・ 建設大賛成!! 死者11,082人、行方不明16,717人を代表したあゆむ様のために。そして、友達「アメリカ」とのきづなのためにも。
    お早うございます。ケナフ鳥の昨日を報告します。
    0715 スタンドの裏ルートでディーゼル軽油(20litter)ゲット
    0800 ホウレンソウ一箱(30ケ入り)入手
    0830 朝食、新聞ナナメ読み、ケナフ壁紙、玄米三本積み込み
    0900 軽トラック(17年前は新車)出発
    0930 高速道鶴巣SSで少行列して¥2,000-ガソリンゲット
    1015 名取インター到着
    1025 ロシナンテス宿舎の円満寺に到着
    1050 岩沼市の避難所往診中の川原先生がタクシーで戻られる
    1110 物資手渡し完了、同行のカメラマンその映像収録
    1200 仙台市長町の魚屋(妻の親戚)に玄米搬入
    1330 鶴巣SSでまたガソリン、と思ったら品切れ無念!! ラーメン昼食
    1450 帰宅、咳と洟水、クシャミ。ウヰスキー煽ってコタツ寝。
    シルバーよりも先にダウンした ローンレンジャーでした。

  15. 被災の記録を残す取り組みは貴重だと思います。
    祈念館構想、いいですね。
    館内に静かな祈りの場(心静かに死者を偲ぶ場)を作っていただけないでしょうか。
    広島の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館や長崎の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のように広いスペースは取れないと思いますが、岡山県福山市にあるホロコースト記念館のように小さなスペースでもいいです。
    http://www.urban.ne.jp/home/hecjpn/
    ご家族や大切な方を亡くした方のための静かなスペースであり、訪れた人が犠牲になられた方を静かに想う空間がほしいと思います。
    ご検討いただければ幸いです。
    お願いがもう一つあります。貸出できる写真パネルの作成です。
    ガザの写真パネルのようなものがあると全国で広めることができます。
    地球のステージの名カメラマン、明ちゃんに撮影をお願いしたいです。
    よろしくお願いします。

  16.  また、ボケが・・・
    レトロト類の支援先を訂正しなきゃと書き始めたら、ノースカロライナになってしまった。
    食材の要請は、被災した子供たちと大なべを囲んでいるロシナンテスやニッコーの方々からありました。その送付先として名取市役所をあげましたが、やはり受付られないそうです。でも、もし届いてしまったら円満寺に電話しますから、と前向きになりました。これも桑山先生のお名前効果ですネ。
     で~ 受け取り先は
    981-1223 名取市下余田字飯塚 563  円満寺様方 ロシナンテス  電話 022-382-3450 に訂正します。
    クロネコに続いて、佐川急便も昨日あたりから配送しはじめておりますが、宅配が機能するかは確認していません。でも、緊急食材と朱書なされば、いけると思います。企業の方というより、個々の運転手さんが真剣に立ち上がっておりますからネ。日本の底力!!
     ケナフ鳥が差し入れた物資は前のコメントでお分かりでしょうが、何の役にも立たない「世界のケナフ紀行」なんて、チッポケな世界一売れない本を忍ばせておきました。
     

  17. 残すべきです。 きっと全国の人が賛成してくれます!
    甚大な被害、被災者が出てしまったことを未来へ伝え、たくさんの人たちから忘れられないようにすることが、1番大切だと私も思います。
    歩さんも、きっと喜んで下さいます。
    歩さんが1人でも多くの人を救おうとしたように、桑山さんが祈念館を設立しようとすることもそれに繋がると思います。

  18. 素晴らしいと思います。是非実現して下さい。きっと出来ますね。そこで、自分も何が出来るか考えます。被災者の方に絵を描いてもらったり、アートセラピーを体験してもらったり、自分の物語(未来を含めて)を絵本にしてもらったり。被災した障害のある子供たちの心のケアも心配しています。・・・・少しでも歩さんや桑山くんたちの気持ちに繋がっていけたら、同時代に生きている意味が見い出せるかもしれません。目の前の自分の課題と対峙しながら、しっかり力を付けます。

  19. こんな時だからこそ俯かず、しっかり前を見据えようとするあなたを驚きと共にこの上もなく誇らしく思います。泣けて、泣けて、泣けて、これ以上は書けません。

  20. 新聞で,岩手県宮古市で80年近く前に立てられた「此処より下に家を建てるな」という石碑の警告によって救われた集落がある,ということを知りました。忘れた頃にくるのが天災です。この祈念館は未来に同じ役割を果たしてくれるのではないでしょうか。頑張って実現させてください。いつか私も訪れます。

  21. 広島の一人ひとりの証言に胸打たれました。
    先生の考えはいいなと思います。
    ただますます忙しくなってしまわれるのではと心配です。
    関西からできることのために手を伸ばして誰かとつながっていきます。
    2日神戸で。私はHATに寄ってから伺います。

  22. すごいです!眩しい!
    あちこちから光が集まってきているよう。津波祈念資料館は必要だから必然。
    今この時、東日本に
    桑山さんが居てくれたことに感謝し応援し続けます。
    息子さんの尊い決意。濁りない目に映るものを伝えてもらいたいです。
    物語の絵本化プロジェクトが動き出したら、私も絵で参加させてもらいたいです!

息子 へ返信する 返信をキャンセル

あなたのメールアドレスは公開されません。必須項目には印がついています *