斉藤穂高という存在

今日は上越教育大で呼んでいただき、久しぶりの新潟公演でした。
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 かつてはコンスタントに新潟県の公演が入っていたのですが、ここ4年くらいは全く依頼がなく、悲しく思っていたのですが、久しぶりの新潟県。でも、この大学には全国の先生方が出向という形で「大学院生」となり、様々なことを学んでいらっしゃいました。

 その中で坂岡先生が、昨年平塚中等学校で見てくださり、今は大学院生としてこの大学で2年間学んでいらっしゃいますが、きっかけを作って下さいました。
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 現役の先生、これから先生になろうとしている皆さんと、とても近い関係でステージができたように思います。

 今から17年ほど前、山形県戸沢村の小さな中学校で夜公演がありました。それは角川(つのがわ)中学校と角川小学校が統合されるという、その記念イベントで呼ばれたのでした。そこにいたのが当時中学校3年生だった斉藤穂高さんでした。穂高はその時のことを、

「衝撃的だった。こんな世界があるのだと初めて知った。そして医者になりたい!と思った。」

 と後にテレビで語ってくれています。

 それから十数年。大学を一つ出て、その後再び受験生となり3年かけて医学部に入学し、ついに穂高はその夢をかなえて、今年の春に医師になりました。

 新潟大学医学部を卒業し、そのまま新潟県立中央病院(上越市)に研修医として勤務しています。今日、久しぶりにステージに来てくれました。医師になってからは初めてです。
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 医者となった穂高は、芯がしっかりとし、すっかり大人になっていました。若々しい医者の顔をしていました。心から誇らしかったです。

 そして思いました。

 穂高は「地球のステージ」を15歳の時に見て、将来の道を決めてこれまでずっと頑張ってきた。僕は、そんな中学生がいたということを途中で知り、そんな穂高に恥じないようにステージをずっと続けようと頑張ってきました。

 この出会いを通して、ステージはいつの間にか「日本の子どもたちの成長を願うためのもの」に変わっていったのです。もちろん伝えているのは、国際協力、国際理解ではありますが、この十数年でその役割は大きく変わり、いのち、勇気、夢、希望、人権、思いやり、学校の中を平和に…といった「学校の中にあるテーマ」というものに焦点を当てるようになっていきました。

 そのきっかけはまさにこの穂高という存在にあることに気づいたのです。

 「地球のステージ」が始まってまだ初期の頃、

「地球のステージによって、夢や希望を持ってくれる子どもがいるんだ。」

 ということを穂高に教えてもらって、僕たちは確実にこの「地球のステージ」を「教育系プログラム」に変えていったのです。

 だから、穂高も僕たち「地球のステージ」に感謝しているけれど、「地球のステージ」もまた、穂高に感謝しているのです。

 互いがこうして刺激し合い、より高いものを目指して努力していく。僕は穂高といつもそういった関係でありたいと思ってきました。

 そしてついに医師となった穂高に会った今日、一つの目標が達成されたのです。

 でも、これからもお互いの夢は続く。

 穂高はより立派な医師になってくこと。僕はいつまでもこの活動を続けていくこと。それを互いの目標にしてまた頑張っていこうと誓い合いました。

 

「夢だけは絶対に譲らない。」

 と語ったガザのモハマッド(19歳)と同様、穂高もまた「夢は譲らない」生き方を貫いてくれています。

 来年の夏か秋に計画している「20周年記念イベント」には、是非穂高に来てほしいと思っています。皆さんも是非、このイベントにおいで下さい!

桑山紀彦

斉藤穂高という存在」への2件のフィードバック

  1. 15歳で自分の将来の希望、目標、目的を定め、
    それに向かってやり通した穂高さんは素晴らしいですね。
    「地球のステージ」は様々な子供たちに、自身の
    夢、希望、目標、目的を描かせているのではと思います。
    奈良女子大附属中等教育学校の石塚君も夢と目的が叶うように、
    一生懸命に頑張ってね。

  2. アーミーズと言い穂高さんと言い出発のきっかけを与えた地球のステージの
    正しさが証明されたと言える結果でうれしいですね。

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