パラグアイ5日目

今日は朝から、もう一歩も進めないんじゃないかというくらいの雷雨の中、日系一世の高木さんは果敢にも20万キロの走行距離を誇るランクル70を駆り、一路イグアスへ向かいました。
しかし途中何度も強烈な風雨に曝され、さすが南米の気候は容赦ないなどと思いましたが、全く根拠のないことでした。アマゾンの奥地ならまだしも…。
 それでもこの時期にこの雨や連日続いている40度を平気で超える熱波は、地球の気象変動を物語っているようにしか思えません。農業立国パラグアイとしては容認できない事態です。
 さて、イグアスに着いて熊澤夢開(むかい)さんと逢いました。
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 夢開さんとはFaceBook友だちが長く、この地に赴任してからずっとフォローしてきました。とてもいい活動をされています。でも今日は土曜日で学校はおやすみ。それでも生徒さん5人の有志が集まってくれたので、風景構成法に取り組みました。
 みんな素朴で礼儀正しい子どもたちですが、もちろん日本語が通じるわけもなく、たった5ヶ月でよくぞここまでという夢開さんの通訳に助けられて、子どもたちとのコミュニケーションが始まりました。
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 夢開さんが取り組むことは、子どもたちの放課後のクラブ活動的内容。それは環境教育のように、一斉清掃やポスター展の実施、体育祭や各種イベントを行うことです。夢開さんらしい想像力を持ってして、こういった問題に取り組んでいくことでしょう。
 今回もこうして元気な協力隊員に逢えて、本当に嬉しい限りです。
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 イグアスはパラグアイでも有名な移住地です。長い歴史の中で、日本人が開拓してきたイグアスは、至る所で日本語だけの生活が可能になっていました。
 とても不思議な感覚です。
桑山紀彦

パラグアイ5日目」への2件のフィードバック

  1. 今は2015年、世界の色々な情報が簡単に手に入る時代。桑山さん大変だったでしょうが、日本を出発して空港で乗り継ぎ、乗り継ぎ(飛行機の遅れ有り)で、パラグアイまで36時間。しかし、79年前の1936年。パラグアイの情報など全く無い時代、移住者の人々は、不安だったでしょう。当時、渡航方法は船。何日かな〜、それとも何ヶ月掛かったんだろか?や〜〜、その勇気には頭が下がります。
    今月初め、車の運転中にラジオをつけていましたら、日本語と言われている言語で、だんだんと失われている言語があると言うのを聞きました。北海道のアイヌ語と沖縄の沖縄語で、その中で特にアイヌ語と八重山語と与那国語は絶滅危機語で、インターネットや交通手段の発達により、情報と人の行き来が容易になったのが大きな理由だそうです。無くなっていく形は違いますが、パラグアイで二世、三世と世代が変わっていくと、日本語を話せる人がだんだん少なくなっているそうですが、日本から遠〜い国。それも地球の裏側で、日本語を絶やさないよう守ってくれている人がいるのを聞くと、嬉しくなります。本当に感謝、感謝です!

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