ヒロシマへ還る

 川本さんは昭和8年、広島市大手町2丁目に生まれ、育ちました。小学校は袋町小学校です。それは何を意味しているのでしょうか。
 小学校6年生の夏、川本さんの家の真上に原爆が落ちてきました。そう、川本さんは爆心地から数十メートルしか離れていないところに生まれ育ったのです。
 しかし川本さんは今も元気に生きています。なぜでしょうか。それは三次(みよし)という広島県の別の町に姉と一緒に疎開していたからです。原爆が落ちて父も母も、小さかった弟も妹も8人が亡くなりました。家に戻るとお母さんは2歳と3歳の弟と妹を抱きかかえるようにして亡くなっていました。川本さんはお姉さんとたった二人だけ生き残ったのです。
 そして川本さんは思いました。
「こんな広島はこりごりだ。もう逃げよう」
 そして岡山に暮らしました。好きな人ができたけど、向こうの両親に「広島の人と結婚すると原爆症がでるからいかんよ」と言われ、絶縁しました。そしてひとりでがんばって調理師になりました。最初は「うどん」から始めたそうです。
 「つくるの簡単じゃから」
 でも努力して店を持ち、それをもっと大きくして150人の従業員を抱える食料品卸の会社を築きました。そして退職、後身に道を譲ったのです。
 そんな時、広島の小学校の同級生から電話がかかってくるようになりました。
 「広島に戻ってこんかい」
 「嫌じゃ、わしは原爆のことを思いだしとうないんじゃ」
 「そうじゃろう、じゃがな、原爆のことを話せる人間がどんどん死んでおらんようになってきとるんじゃ。おまえは元気にやっとる。かえってこんか」
 川本さんは迷いました。けれど、岡山で一財をなし、やるだけのことやった今、思い出されるのは無念の中で死んでいった父、母、そして勉強したかったのにできずに死んでいった小さな弟妹たちのことです。
 還ろう。
 川本さんは生まれ故郷の広島に3年前戻ってきました。72歳になっていました。広島のことを心の中で封印してすでに60年が過ぎていました。
 そこで「ひろしまピース・ボランティア」という存在を知りました。
 広島平和祈念資料館の中で展示の説明をするガイドさんたちのことです。
 「わしにうまく語れるんじゃろかな」
 手探りでのボランティア活動が始まりました。
 そして2年が過ぎ、川本さんはようやく自分の役割を見つけたという思いにいたりました。
 「全国からたくさんの子どもたちが修学旅行でこの広島にきてくれる。そして私たちの話を聞いてくれる。そして子どもたちがまた全国の自分の町に帰り、そこで広島のことを語ってくれる。
 そのことを思うと、無念の中で死んでいった自分の父、母、そして小さかった弟、妹への供養につながる気がしてきた。そこで、今は紙飛行機を作り、中に小さな折り鶴を入れて子どもたちに渡しているんじゃ。それは、全国へ、この広島の平和を願う気持ちが飛んでいくといいという願いを込めている。そしてもう一つは、この飛行機は昔母がよくハガキを使ってつくってくれたもの。だから、自分の母への想いも乗せているんじゃ。疎開して離れ離れになっていたから、8月6日の死に目には逢えんかった。そんなわしの母への届かぬ思いも乗せさせてもろうて、全国へ飛ばしている。個人的なことで申しわけないが、それが、“ヒロシマ”を語らせてもらっているわしの、家族へ向けた想いであり、供養なんじゃ。」
 川本さんの「ヒロシマへの復帰」それは、重荷と同時に、未来へ向けた「もうこんなことしちゃいかん」という願いを込めて、今日も続けられています。
 川本さんは「木曜のボランティア」です。木曜日に広島平和祈念資料館へいかれたら、西館の終わりのところで、紙袋にたくさん入った手作りの折り鶴付き紙ヒコーキを、子どもたちに手渡しているのが、川本さんです。
 一声、
「お還りなさい」
 とお声をかけてあげてください。
川本さん
川本さんが修学旅行生に紙ヒコーキを手渡す
 
 このように、鋭意「ヒロシマ篇」の制作は進んでいます。
 初演は5月24日(土)、仙台にて。「地球のステージ~果てなき地平線」の中で「ヒロシマ篇」が登場します。

ヒロシマへ還る」への4件のフィードバック

  1. いつか必ずいかなくては、と思っていた広島。近々行きたいと思っていた広島。
    いつか、川本さんに会いに行きます、平和記念資料館に。
    まずは、映像の川本さんに会いに仙台に。
    最近、やみくもな殺人事件でも、チベット問題のことでも、裁判の結審のことでも、生命の重さについて考えさせられます。
    自分に何が出来る?戦争だけではなく、争いごと、ケンカが
    起きることを許さない空気を協同で作っていくことでしょうか?見て見ぬフリしない、あきらめない。他人に興味、関心を持って生きていくこと。ステージで伝えてもらっているメッセージを大切に生きていきたいと思います。

  2. 広島を離れて早1年が過ぎました。広島にいる間に川本さんのことを知っていれば、きっとお会いしに平和祈念資料館に足を運んだことでしょう。また戻りたい気持ちが沸々と湧いてきました。
    私の義理の両親も広島での被爆者です。残念ながら義父は7年目に他界。平和祈念資料館の隣にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に原爆死没者として登録しました。
    当時の悲惨な状況は、高齢となった義母から今も度々聞かされます。でも、原爆の惨禍を語り継がなければという思いと、もう思い出したくないという思いが交差しているようにも見えます。
    川本さんの「もうこんなことしちゃいかん」という願いをみんなが共有できますように・・・

  3. ヒロシマ篇も作っているんですか?!
    平和記念資料館メルマガ第57号にも川本さんのお話が載っていました。"ヒロシマ"を語ってくださる方の思いを大事に、私達も子どもたちに語り継いでいきたいと思っています。昨年、ピース・ボランティアをしている友人に資料館をゆっくり案内してもらいました。
    まずは知らないことを知ることが大切ですね。ステージでもヒロシマを語り継いでくださることをとてもうれしく思います。今回の仙台は無理だけど、私も早く見てみたいです。

  4. 昨年3月、ステージで、初めて広島に行きました。
    時間がなくて、原爆ドームをちらりと見ただけでした。
    駅の構内を、たくさんの荷物をかかえ、新幹線の乗り場まで、ひたすら走った記憶しかありません。
    ステージ5には、広島篇も登場するのですね。
    ステージの「広島」は、どう伝わってくるでしょうか。とても楽しみです。

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